写真をとりながら歩くと、見飽きているはずの街でも
旅行者のワクワク気分を味わえるようになるので好きです。
が、昔は好きじゃありませんでした。
昔飼っていた猫はカメラを向けると嫌がりましたが、
私も子供の頃から写真を撮られるのが嫌いで、
かなりの確率で仏頂面でうつっています。
平安時代の女性も、魂が抜かれるといって肖像画を描かれるのを嫌ったそうですが、
自分が紙に縮小されるのが気持ち悪い気がしていたのかもしれません。
学生の時、アナログカメラマニアの友達が一眼レフを貸してくれて、
写真を撮るのが少し好きになりましたが、人の写真はほとんど撮りませんでしたし、
自分が取られるのも嫌いでした。なので手元にある自分の写真といえば、
旅行やイベントの時のスナップと、友達の写真展の被写体をした時のものぐらい。
毎日何枚も自撮りしている人と比べたら驚くぐらいの少なさです。
旅先でも、写真を撮りまくってたら雰囲気が損なわれる気がして、
記憶に刻めばいいや~と思ってました。
デジカメはモノとして可愛くないから持ちたくないとかいって
今どきなんで?と友達に珍しがられつつ、ドイツでアナログなカメラとフィルムを買って
モナコ、南仏、ドイツなどに旅行した時にちょっと撮ってみたりしましたが、
現像せずほったらかしていたせいか現像の失敗か、ほとんど消えてしまいました。
最初にパリに住んだ時も、カメラを構えるのがいやで、ほとんど撮りませんでした。
結局、今でも手軽に見られるのは、パリに遊びに来た友達が
「使ってみなよ」と貸してくれたデジカメで撮った写真です。
実際使ってみたら、実物そっくりのミニチュアを金属の箱に生け捕りにしているような感じが
自分の収集癖にピッタリはまって、気に入ってしまいました。
妙なコダワリのせいで長い間買わずにいたのがもったいないと反省して、
それ以来とりあえず何でも試すようになりましたが、昔の自分をどつきたい
にしても、1世紀前と比べて、世界で何億倍の数の写真がとられてるんでしょう。
Webカメラ、デジカメ、ガラケーからスマフォまで、写真をほぼ無料で撮る方法が普及した今、
写真を撮るのは食事するのと同じくらい当たり前になりましたね。
写真家の言葉の中で私が一番しっくりくると思うのは
「カメラは世界を写し取るコピー機、写真はコピーだ」という森山大道さんの表現ですが、
今は世界中の人が、前世紀にはない勢いで世界のコピーを、
自分なりの切り取り方で保存しているといえます。
全ての人間にカメラを装着し、各人が見た景色や音などのデータを統合すると、
過去のある時点の世界を再現することができる、
つまり過去の世界を体験できるタイムマシーン的なものが作れる、と聞いたことがあります。
その場合カメラの中身は、個人の感性などが排除された
純粋な世界のコピーそのものということになります。
カメラとフィルムを買える人が少なかった19世紀なら、
写真は当時の世界の貴重なコピーとしてだけでも価値を持ちますが、
これだけ写真があふれると、美術館で展示される写真を選ぶ基準はどうなっていくんだろう
と不思議な気分になってきます。
WILLIAM EGGLESTONの展覧会に行った時、
1970年代にはまだアート写真は白黒であるべきだという暗黙の了解があり、
その概念を覆したのがこの写真家だ
というような説明が書いてありました。
白黒で、構図がよくて、フィルムから現像してて…などの従来の「写真」の条件が
そうやっていろんな写真家によってくつがえされてどんどん消えていって、
やがてカメラを使って二次元の画像にすることだけが「写真」の定義として残って、
20世紀アートのように写真自体よりもキャプションの方が重要になっていくのかな…
本当に謎です。
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